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厄年の歴史

厄年とチャンス 空海の転機

 厄年は事を起こす最大のチャンスとも言えます。
女性の場合には、それほどハッキリしていませんが、男性の権力者たちの場合には、42歳が、決定的な意味を持つ事が多いでしょう。
 時として宗教を起こす時期です。空海(弘法大師)は、厄年を転機に変えた強い力の持ち主の一人です。
 空海は、平安時代の774年、香川県善通寺市に生まれました。その後京都で数年間、役人になるため、大学に学んだが、貧に苦しみ生活に疲れる民衆を見て、役人になって本当に助けることができるのだろうかという疑問をもち、仏教の道を選んだそうです。
 804年30歳の時に最澄と共に唐に渡り、中国の僧恵果(けいか)の元で密教(真言宗)の教えを受けました。その他、美術・工芸・医学も学んだと言われています。
唐からの帰朝後、810年嵯峨天皇に認められ、京都の高尾山の神護寺で鎮護国家の祈祷を行いました。
その後密教は朝廷から国を守り、民衆を救う仏教と認められることになり、空海は古い仏教や僧との対立を避けながら、密教の教えを少しずつ広めていくそうです。
 和歌山県の高野山に真言宗の総本山となる金剛峯寺を建て、真言密教の根本道場を開き立教をしたのが、816年で空海43歳のときの話だそうです。

厄年の今と昔

 一般的に厄年は、

男性の42才と女性の33才は大厄で、前後の年が前厄・後厄になっています。
現在、一般的に知られている厄年は江戸時代に生まれ、江戸から明治の時代にかけて確立されてきたそうです。
 むかしの貴族なら、しなければならない仕事も少なく、厄が頻繁に訪れても厄落としの儀礼を頼むことができるが、庶民は貴族と違って、生きていく為に働かなければなりません。
厄年が頻繁にめぐって来ても、それにいちいち対応している訳には行かないのです。
そこで回数が絞られ、男女とも一生にせいぜい3回程度になるのではないでしょうか。
そうした合理化があるからこそ、厄年という風習は今日まで受け継がれてきています。
そして、さらに時代が進むことで、一生に一度の一番大きな厄に関心が集中するようになってきました。
 いまこそ42才といえば、働き盛りであり男盛りという事になります。しかし、むかしの42才は、現役から退き隠居する年齢でもありました。
過去、人生50年という時代には、40代といえばもう晩年なのです。
商売をしている人は、息子が後継ぎとなる年齢に達したら隠居するのが普通で、42才という年齢は後半生に入る年齢と考えられていました。
 そういう事も、習俗が広く受け入れられていった原因になっているのではないでしょうか。

古典文学の中にみられる厄年

 古くから厄年は用いられていたようで、その証拠に、古典文学の中にも厄年の記載が見られます。
 ここでは、関係のある厄年の記述のみ一部あげてみます。
 江戸時代には、男性と女性の厄年が別々となり、大厄とか前厄や跳厄(後厄)というようになったと伝えています。
 その証拠に、「和漢三才図会」には、「今の俗男女厄を分つ、その拠るところを知らず。男四十二を大厄とし、その前年を前厄といい、翌年を跳厄(はねやく)といい、前後三年を忌む・・・」とあります。
 「和漢三才図会」は、今から約270年前の正徳3年に編纂された、和漢古今にわたる事物(天文・人物・道具など)を105部門に分けて解説した書です。
 もう少し時代をさかのぼってみていくと、日本の古典では13歳、33歳、37歳、42歳を厄年としているのがみられます。
 例えば有名な物語にも厄年が出てきます。
 「源氏物語」の薄雲の巻には、「三十七にぞおわしましける、慎しませたもうべき御年なるに、はればれしからで・・・」。若葉の巻下には、「今年は三十七にぞなりたもう。さるべき御祷りなど常より取りわきて、今年は慎しみたまえ・・・。
 「栄華物語」のかがやく藤壷の巻には、「今年ぞ十三にならせたまいける、人のつつしむべき年にてもあり、宿曜などにも心ぼそくのみぞ云いて侍れば・・・」。
 「水鏡」の序には、「慎しむべき年にて、すぎし如月の初午の日龍蓋寺へ詣うで侍りて・・・。三十三を過ぎ難し、相人なども申しあいたりしかば、岡寺は厄を転じたまわりて詣ではじめより・・・」。
 「高国記」の下巻には、「太栄五年四月、高国四十二の重役とて出家す・・・」。
 と、現代の私たちが考える以上に、平安においても厄年というものがいかに重要であったかということがわかります。

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